Kupotea njia ndiyo kujua njia
道に迷うことは道を知ること
失敗を重ねて、人は知恵や知識を得ていく。とはいえ凡人は、失敗の上に失敗を重ね、なお道を知らず。
この果てしなさこそ人生です、ハイ。
結局は学習能力であり、謙虚さなんでしょうね、必要なのは。
それがなくては学び取ることができない。
methali とは諺という意味です。
時に応じて諺が出てくるようになりたいですね。
Kweli ikidhihiri, uwongo kujitenga
真実が明らかになる時、嘘は身を引く
そうであってくれればいいのですが、近頃は「ウソ」の方が力が強いというか、「真実」を駆逐していることって多い気がするのですが、、、。
こういう意味合いのことわざは、だいたいどこの国にもあるということですが、ということは逆に、嘘がまかり通っているってことですよね。
嘘も百回(千回だったかな?)言ったら真実になるってお国柄もあるとかいうけれど、その国にもこんなことわざが、きっとあるんでしょうね。
7月の選挙は、真実を述べた人が当選するように祈っていよう。
耳に優しいだけの嘘公約をする人が落選しますように。
受け狙いのアジ演説する似非政治家が立候補して、当選したりすることのないように。
Hasira za mkizi furaha ya mvuvi
mkizi (魚の名前)の怒りは漁師の歓び
この魚は怒ると高く飛び上がるそうで、そうすると彼の敵である漁師に捕まり、結果として敵を喜ばせることになる。
つまり、短気は損気 ということですね。
東アフリカの人は、総体的に短気なのかどうか。。。
かなりカッカしやすいというか熱くなりやすく、例えば選挙の時の暴動みたいなことにもなるんですが、長いものに巻かれると言えば良いのか、雇い主や買い物に行った先の店主などには反抗しない、きわめて従順だったりするようなところも見受けます。
これは、長い植民地時代の立場がすり込まれているからかしらと思ったりもしますが。
或いは、一人だと行動できないけれど、「赤信号みんなで渡れば怖くない」式に、多数が集まれば勢いで反抗してしまうとかいうのもあるのかしら、と思ったりもします。
Aombaye magadi awe na kigae chake
塩を乞うものは壺のかけらを持っておけ
なにやら判じ物じみていますが、人に塩を貰いたいのなら、それを入れるための壺のかけらでも何でも持っているべきだ。
つまり、中身も器も人に貰うようではいけないと、自助努力を促していることわざ。
でも世の中、中身も器もどころか、貰いに行く足代まで相手に頼るような輩もいますよねぇ。
スワヒリ語の諺にこういうのがあるということは、自助努力が大事という考えがあるということなんでしょうが。。。
でも、そんな言葉は辞書にはないという人が多いようにも感じます。
例えば使用人からの前借りの申し出。
毎月決まった額が、多いにしろ少ないにしろ入ってくるんだから、計画的に使えば良いものを、月末になると借りに来る。
離れた場所の畑に置いていた20代の男性は、文字通り足代まで借りてうちまで来ていました。
畑には、ベッドルームが二つある小さな家があって、むろん家賃はナシ。
作った作物は自由にとって食べていいし、私が尋ねていくときにはお肉やお魚を差し入れするときもあるのです。
むろん水道代は我が家の負担。
そんな好条件でも前借りしに来るんです。
そして帰りがけに、前借りした賃金とは別に足代を貸してくれって。。。
でも、その足代は、戻ってくることはぜったいにない。
親に仕送りもしているのだろうと大目に見て貸していたら、ある日突然いなくなって、the END。
こういう人も、いつか所帯を持って子どもを育ててということになるのでしょうが、その時までにきちんと矯正できるのかしら??
Mgeni siku mbili, ya tatu mpe jembe
客扱いは二日間、三日目には鍬を与えよ
新しい環境に入っても、いつまでも「お客さん」でいてはいけない、いさせてはいけない。
慣れること、つまり「すること」の大事さを説いているとか。
この感覚は、親戚の子どもを預かったりしたときや、田舎からのお客を泊めたときなどに強く感じます。
みんな、最初の日からでも、何かできそうなことを手伝おうとしてくれます。
時にはこちらが戸惑うほど。
だから、腰が軽くよく動く人が喜ばれると言うより、それが普通で、お尻が重い人は徹底しして嫌がられる感じです。
私はよく気がつく方ではないのですが、でも「外国人だから」という理由でかなり大目に見てもらっていました。